じゃりじゃり日記

修二病でもポエムがしたい

安部公房とゲーデルの不完全性定理

 安部公房(1924-1993)は小中学校は奉天満州)の学校、大学は成城大学を卒業(戦時下のため繰り上げ卒業)後、東大医学部に入学・卒業という学歴を持つ。元々は数学者に成りたかったらしい彼の作品の中には、「虚数」や「ユークリッド幾何学」など多くの数学要素が使われている。ただ、中でも彼の作品と親和性が高い要素はゲーデル不完全性定理だろう。

 ゲーデル不完全性定理を非常に簡易的に表現すると「数学は数学自身が嘘をついているかどうかわからない」となる。これは丁度、自己言及のパラドックス「人間は自分自身が嘘つきかどうか証明も反証もできない」を数学の中で言い換えた形になる。ちなみに「数学も自分の嘘を暴けないんだ!」ってことを言うと「それは理論体系の中で自分自身を表現できる、帰納的公理化可能な理論に限るよ」というツッコミが入ってくる(入ってきた)。例えば、プレスバーガー算術のように加法だけが存在する、乗法(ないしはその代替物)がない理論の中では、全ての命題が決定可能になる。

 ゲーデル不完全性定理は1931年に証明されたものだ。安部公房の主な作品は1951-1984年に作られているし、数学者を志していた彼がこの定理を知らなかったとは考え辛い。とはいえ、私が読んだ限り「ゲーデル不完全性定理」という用語は彼の作中で使われていない。しかし私が思うに、不完全性定理は用語としてでなく、構成として利用されていたのではないかと思う。

 数学の公理系には、ユークリッド幾何学ペアノの公理など様々なものがあるが、我々人間の公理とはなんだろうか。ここで、人間の公理とは人間の共通のルールだとしよう。と、すればまず挙げられるのが憲法だ。特に日本人は、生まれながら日本国憲法によって基本的人権が尊重されており、中学までの教育や、教育後の労働が義務付けられている。それとは別に、視点を肉体的なものに変えれば、肺呼吸や心機能、血液の働きも公理と言える。これらを公理に、命題を広げていくのが医学なのだろう。

 だとしたら、文学は一体何を公理に作られているのか。直感的だが、これは「感情」だと思う。我々にとって、我々の感情とは一つの学問に数えられるほどに複雑で奥深いものなのだ。私は人間の心は一つ以上の感情が発生し得ると考えている。その観点で言えば、喜怒哀楽という四字熟語は4つの感情ではなく、24-1 個の感情を示す。

 話を安部公房ゲーデル不完全性定理に戻そう。代表作『砂の女』の主人公の公理系とは何だったのか。おそらくそれは「都会での生活」だ。上京、就職、競争、結婚、育児、昇進。都会に住む多くの人々が、これらを人生を成功させるための完璧な理論だと考えているのではないだろうか。しかし、主人公は砂丘の集落(超自然数)で同様の理論が使えず、この理論がω無矛盾である(万能でない)ことを知る。

 後は簡単だ。主人公の理論体系では都会生活以外で「人生を成功させる」ために、溜水装置の研究という公理が加わった。かくして主人公は上京、就職、競争、結婚、育児、昇進もなしに、人生を成功させる糸口を見出すことができた。だが…そう、これは糸口にしかすぎない。たかだか100億のニューロンを持つ人間には、プレスバーガーのように単純で完全性のある理論が存在しても良いが、おそらくニューロンのマップごとにその理論は姿形を変えてしまうだろう。新たな理論が不完全性を持っていないとは限らないし、また完全であり続ける保証もない。だとすれば、人は常に新しい生き方を選んでいくべきなのかもしれない。