じゃりじゃり日記

修二病でもポエムがしたい

『カラマーゾフの兄弟』、『ゲーデル、エッシャー、バッハ あるいは不思議の環』、『砂の女』 あるいは読書

はじめに

 はっきり言っておくと、私が修士に進学した理由は就職に失敗したからだ。その時の希望職種は学部時代の2年弱のアルバイト経験から自然とエンジニアを選択した。これが失敗だった。アルバイトで既に私はエンジニアに砂遊びのような徒労感を覚えていたため、嫌悪を抱えたまま就活をしてしまったのだ。いずれ、商業的な開発では誰も喜ぶことはないだろうし、何も残るものはないだろう?と…。きっと私にはもっと他にやりたい事があるのだろうが、しかしそれは就活中にはっきりと記号化された形で浮かび上がってこなかった。そこで去年から私は、自己に対して幅広い視点を持つべく読書を始めた。

 この1年で読んだ本は以下の13冊(読書メーターから抜粋)。この記事では特に『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー新潮文庫)、『ゲーデルエッシャー、バッハ あるいは不思議の環』(ダグラス・R・ホフスタッター、白揚社、まだ読んでる途中)、そして『砂の女』(安部公房新潮文庫)から得た 視点 をまとめる。一見、何の繋がりもないこれらが、私の中では見事に一直線に結び付き、私の中にある野望を少しだけ鮮明にしてくれた。

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 ちなみに各書を読んだ理由は以下の記事で「毒書」として紹介されていたからだ。ライ麦を読んだのは攻殻の影響だろうか(卒論しながらNetflixにある全4クールを観た)。これと白痴とウェルテルはその深層心理の描写にただ共感しただけだった。こうしたイノセンス文学は人間の良心を尊ぶだけで、その良心を安らがせる方法を教えてくれない。あるいは、その良心の呵責を終わらせないことで主人公達の絶望が表現されているのだろうか。

読んではいけない――人生を狂わせる毒書案内: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

 先に言っておくと、本記事は読書感想文というよりも内省の記事であり、各書の詳細を説明する気は全く無い。本記事は、私と本の間の出来事について記述する。

人間の公理『カラマーゾフの兄弟

 本書はドストエフスキーの最後の作品であり、世界的名著である。上中下合わせて2000ページ超という大著であるが、本書でドストエフスキーが明らかにした人間の性質は次の通り。

 人間にとって良心の自由ほど魅力的なものはないけれど、同時にこれほど苦痛なものもない。

 良心が自由とは、例えば宿題が終わってない夏休みの小中学生、就活や研究をしていない大学院生、またはニートの状態を指す。これらの苦痛の原因は、良心の呵責の解決(やること)が自分の裁量に任せられている点にある。つまり、ケツを叩かれて宿題や就活、研究、労働をしている間は良心の自由が無く、苦痛もない。事実そうだと思うし、これは多くの人に経験があるはず。このことから「人間の行動の原因には良心がある」という公理を得られる。しかし、もし良心が人間の行動の原点であるならば、私は尊ぶべき良心が豚の獰猛な食欲のように思える。ホールデンやウェルテルはその貪欲な良心を満たす食事を見つけるとが出来なかったのだ。

無限の認知『ゲーデルエッシャー、バッハ あるいは不思議の環』

 「私は嘘つきである」。この言葉が真であるとき、この言葉は嘘(偽)になる。偽であったとき、この言葉は真になる。このように、無限の解釈を持つため証明も反証もできない言葉がある。一般にこれは自己言及のパラドックス、あるいはエピメニデスのパラドックスと呼ばれるものだ。ゲーデル不完全性定理は、数学の中で数学を表現し、この自己言及のパラドックスを再現したものになる。開発でテストを書いことがあるだろうか。今やテストは開発に無くてはならない存在だ。しかし「テストをテストをする必要があるのではないか?」という疑問を持った人は少なくないと思う。これも根底に同様のパラドックスを持つ。私達はテストが、あるいは人間が嘘つきかどうかを証明できない。まあ、ただそれだけ証明できないのであって、プログラムの検証は十分に可能だし、テストのテストは必要ないのだが。

 エッシャーのだまし絵「滝」の水車や水路は、一見実在のものと捉えられる。しかしこれを全体として見て、その水の流れを追ったとき、この構造は明らかに実在(だまし絵を実在化した日本の研究者もいるが)しないし、終端を持たず無限に繰り返されることがわかる。しかし、なぜ私達はこの水の流れが無限だと気付けるのか。これは、私達が絵の中の水車や水路に対して「絵」というメタの視点を持つからである。すなわち、絵の中のオブジェクトは自分が無限の一端を担っていることに気付いていない。

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 バッハの『音楽の捧げもの』にも同様のことが言える。この作品は、1つの主題が4つの声部に分けて演奏されるが、各声部はその前声部より音階が上か下、またスピードが2倍か1/2倍になる(らしい)。これは丁度前の声部に対して言及をする自己言及の音楽と言える。バッハのフーガの中でも、この言及によって声部の音階が無限に高まっていくものがある。そしてこれはエッシャー同様、各声部だけを聴けばその無限性に気付くことはできない。これは人間が視覚だけでなく聴覚に対してもメタ視点を持つことを示す。

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 プログラムにも無限はあり、それはちょうどエッシャーの絵と同じ形式になる。while(1); が無限に続くことがわかるのは、我々が「ソースコード」というメタ視点を持つからだ。機械語を1命令ごとに処理するプロセッサは、機械語にメタ視点を持つことができず、自身が無限の処理を続けることに気付かない。この世界では、我々人間は無限を認知する能力を持っている。では………我々は、我々自身の思考にある無限を認知することができるだろうか?

 (ちなみに、本書で説明されるニューロンと思考・意識の関係はこんなあばずれなものではないし、私はまだ14章までしか読んでいない。厳密な思考への言及を知るには本書を読んでほしい。)

無限の思考の認知『砂の女

 我々の脳には100億のニューロンがあり、それぞれ複数のニューロンと結合している。このニューロンには特定の記号──ニューロンの形式に正規化された記憶──が対応しており、連鎖的、あるいは同時多発的に発火を起こす。そしてそれこそが思考であるならば、ある思考は100億以下の頂点を持つ有向グラフになるに違いない。そして、そのような超複雑な有向グラフの中には当然、思考同士の閉路が存在してしまうはずだ。「生きるには仕事が必要である」「仕事は人生の目的ではない」が現代人が抱える閉路の代表例と言える。この循環する閉路を抜け出すには「人生の目的と仕事の両立」を目指せばよい。しかしそのような抜け穴がはっきりと実在する人は極稀なのだ。故に我々は幾度となく迷宮に踵を返し、無限に抜け穴を探し続ける。

 別の抜け道もある。すなわり、思考の枝刈りである。……「人生に目的などない」を閉路の手前に入れてしまえば良い。ところで、我々の人生の目的への思考、その思考の根はどこにあるのだろうか。これは間違いなく『カラマーゾフの兄弟』で示されたドストエフスキーの良心の公理にあるはずだ。とすれば………人間はすべからく良心を満たすべく行動する存在、もとい労働をプログラムされた動物だと言えるのではないか?だとしたら、閉路の枝刈りに意味はなく、別のルートからさらに良心への枝が生えるだけではないか………。

 ともかく、私は人間の「良心を安らがせる」思考が無限ではないか、という疑問を持つことができた。これが無限であるかどうかは、おそらく証明も反証もできないだろう。ただ仮に無限だとしたら、人間は無限の発展をしてくだろうし、その中での個人の幸せな家庭や安定した仕事など些末なものでしかないだろう。すなわち、我々は我々の生きたいように生き、死ぬべきだ

 以上がカラマーゾフの兄弟のイワンの叙事詩から、砂の女の「他人なんてどうでもいいじゃない!」というセリフを繋げた記事になる。結局のところ「カラマーゾフ万歳!」となってしまったことが悔しい。とはいえ私は、23歳時点での自分の思考回路の記録を付けたかったのだ。GEBはまだ読み終わってないし、読み終わった後で思考は変わるかもしれない。是非変わって欲しい。ところで、現時点での希望職種については明言しないでおく。